ちょんまげの由来 丁髷には意外と「現実的な理由」があった!

 時代劇ではお馴染みのちょんまげ。漢字では丁髷と書きます。映画やテレビドラマ、日本の文化紹介なんかで良く登場するので違和感が少なくなっているかもしれませんが、正直いって現代人から見たら「ちょっと変」な髪型ですよね。

 日本にはなぜこんな「変」とも言える髪形文化が定着したのでしょうか。そこにはちゃんとした理由がありました。今回は、何故日本ではちょんまげ文化が花開いたのか。丁髷の由来に迫っていきたいと思います。

丁髷(ちょんまげ)とは何か

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 ちょんまげの由来の前にそもそも丁髷って何なの?という事から始めたいと思います。あんまりちょんまげ連呼するとクドいので以降はできるだけ「髷(マゲ)」と呼ぶ事にします。

 たぶん皆さん「髷って江戸時代頃に流行した髪形じゃないの?」という思いがあるかと思います。少なくとも私はそう思っていました。確かに間違いではありません。でも、時代を遡るとなが~い歴史があったのです。どんな歴史があったのでしょうか。

ちょんまげの由緒正しい歴史

 そもそも髷は江戸時代にいきなり流行したわけではありません。侍発祥のイメージが強くありますが実は平安貴族にルーツがあります。

 飛鳥時代(592年~)に「冠」をする文化が中国からもたらされました。主に貴族の間で冠や烏帽子(えぼし)をかぶる文化が広まっていきました。当時烏帽子は「漆」を使って形を整えていたので、頭が蒸れ蒸れになってしまったそうです。

 そこで、蒸れを防止するために髷(マゲ)の原型となる髻(モトドリ)が開発されます。髪を集めて後頭部で束ねた形です。現在で言うとポニーテールに近い形でしょうか。「冠下の髻(かんむりしたのもとどり、かんかのもとどり)」とも呼ばれます。

丁髷の丁は元々「ゝ」字だった?

 ちょんまげのちょんは元々「ゝ」の字を使っていました。髷を結って髪を前にちょこんと出した姿がこの字とそっくりだったからですね。次第にゝの字に丁が使われだして現在の丁髷になったとされています。

 平安時代には貴族から武士に髷が広まりを見せます。一体なぜ、武士が丁髷をしなくてはいけなかったんでしょうか。

更なる蒸れ防止のために

 時は流れ平安時代末期(~1185年頃)。鎌倉時代がうっすら見えてきた頃です。武士が次第に力を持ってきた時代ですね。

武士「あのさ~。戦の時かぶるあの兜。あれかぶると頭が蒸れっ蒸れで目が回りそうなんだよね。なんとかならん?」

じい的な人「髪があるとかなり蒸れましょう。髪を剃ってみてはいかがですか?」

武士「え~ まじ?蒸れなんとかなる?んじゃあ、やってみっかな~」

 こんな話があったかなかったかは分かりませんが、武士が戦の際、前頭部から頭頂部にかけて髪を剃りあげて兜を被り出しました。

 これが皆さんが良く知っている頭を剃り上げて残った髪を結うスタイルの発祥です。剃り上げた部分を月代(サカヤキ)、結った部分を髷と呼びます。

 頭を剃り、髷を結った理由 つまり丁髷の由来は「兜の蒸れから頭を守るため」だったんですね。

戦国時代に入ると、すっかり月代(サカヤキ)に髷スタイルが戦国武将の間で定着します。

貴族から武士へ 武士から平民へ

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 戦国時代において、丁髷スタイルはあくまで戦のスタイル。戦の無い時は剃り上げていませんでした。

 時代は変わって江戸。江戸の侍達にはほとんど戦争なんてありません。平時なので月代にはせず、髪をぼうぼうに伸ばしていました。江戸っ子達からは、その汚らしい格好が次第に嫌われていきます。そこで武士達は、日常から月代にし、髷を結うようにしました。その方が清潔感があって好感度が高かったんですね。

 ここに、日常的に頭を剃り、髪を結い丁髷を作るスタイルが確立したのです。

江戸で花開いた丁髷文化

 武士達が月代を剃り、髷を結うことを日常としたことで、町人達にも丁髷スタイルが広がっていきます。しかし、武士達がしているかっちりした丁髷をしゃらくさいと嫌った町人達は独自のおしゃれを楽しみ始めます。

 では、どんな髪型が当時流行したのでしょうか?

新しい髷の開発

 しゃらくさい侍の丁髷を嫌った江戸の町人達は独自に自分達のお洒落髷を楽しみ始めます。そこで開発されたのが「銀杏髷(いちょうまげ)」です。
 
 この銀杏髷こそが、私達が普段言っている「丁髷」に一番近い形になると思います。(本来丁髷とは髪が少なくなった老人がした髷の一種を呼びますが、私は丁髷と言えばこの銀杏髷を指していると考えています)

 江戸っ子は大変に髪型を気にしたようで、散髪屋が社交場になるほど大繁盛したと言います。職業によって流行が違ったようで商人は客商売をするために小さ目な髷をしたといわれています。

 一方職人さんは全体的に太く短い髷を結い男っぽく仕上げたそうです。今でも商人は小綺麗な髪形にしますし、職人さんは角刈りに代表される男っぽい髪型を好んだりしますよね。

 これだけ流行した丁髷文化も明治に入るとあっという間に廃れてしまいます。一体何が起きたのでしょうか。

丁髷の終わり

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明治時代になると丁髷が急に廃れてしまいます。これは明治4年(1871年)に散髪脱刀令が出されたからからです。

 一般的には「断髪令」とも呼ばれています。断髪令の内容とは「一般人は髷を結わなくていいし、華族(旧侍)は刀を持たなくてもいいよ」と言う法令でした。断髪令を受けて明治6年に明治天皇が散髪を行い、役人を中心に髷を結わない人たちが増えていきました。

現代に残る丁髷

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 明治、昭和、平成と時代が進むにつれ丁髷を結わない人たちが圧倒的に多くなりました。それでも現代日本には丁髷文化が残っている場所があります。

 それは「大相撲」です。十枚目以上の力士は「大銀杏」という髷を結うことを許されています。ただし、力士の髷は月代にはしておらず、江戸時代の武士や町民達のスタイルとは違ったものになっています。(頭を剃り上げずに、髷だけを結うスタイル)

1000年の時を超えて流行し続けた髷

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 飛鳥時代に貴族の間で流行した髻(モトドリ)から千年が経ちました。その間平安から戦国時代にかけて武士に浸透し、月代と髷が登場しました。

 江戸時代になるころには様々な髷のスタイルが考案され、ちょんまげの文化は一般市民にまで広がりを見せました。

 明治に入ると髷は一気に廃れてしまいます。現代に至っては、大相撲や時代劇等の極一部でしか見られなくなってしまいました。

 千年以上の時をかけ一般人に浸透した文化が一瞬で衰退してしまったのは残念に思います。でも、今でも頭を剃り、髷を結う文化が残っていたらと考えてみましたが、やっぱり現代に至るどこかで廃れたのもしょうがないのかなとも思います。

 そんな「変な髪形」の時代の方が昭和平成のたかだか百年より10倍も長い千年以上も続いていたんですね。逆に現代人の髪型を当時の人々が見たらやっぱり「変な髪形だ」と思われたのかななんて、想いをはせて記事を終わりたいと思います。

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