なぜ関西は薄味で、関東では味が濃いのか

富士山

関西は薄味で関東は濃い味というのは、最近ではかなりメジャーになってきた話かと思います。有名どころの話ですと、カップヌードルの味は関東と関西では味付けが違っていて、どこから味が変わっているか?というと岐阜県の関ヶ原付近で味付けを変えている、なんて事が話題になったりもしました。

今回は、なぜ関東と関西ではこんなにも味付けに差ができてしまったのか。すべての鍵を握るのは江戸幕府が開かれた1600年代だと言われています。諸説入り乱れていますが、有名どころの3つの説をご紹介しながら真相に迫っていきたいと思います。是非お付き合い下さい。

丁稚に薄味の食事をさせていたから説

丁稚奉公とは

丁稚とは子供の頃から商人の店に住み込みで働く少年のことを指します。丁稚(少年)が店で奉公(勤める)する事から丁稚奉公と呼ばれています。

そんな丁稚は給料など貰えませんでした。当時丁稚は商売のノウハウや読み書き算盤を教えてもらう代わりに給料などは貰わない。という習慣がありました。

代わりに、衣食住の保証がありました。住む場所、衣服を貰え、食事は質素ながらもちゃんと三度食べさせてもらっていました。

丁稚に出された食事が薄味だった

ここで丁稚に出された「食事」こそが関西の薄味文化の元になったのではないかと言われています。

当時丁稚の数は全体で見てもかなりの数で、大きな商人の家では十数人もの丁稚を置いていましたので、食費だけでもかなりかかっていたに違いありません。濃い味付けのおかずなんて出しておかわりをたくさんされては目もあてられません。

そこで商人は丁稚に「薄味」の飯を出し、おかわりさせないように工夫をした。という所から関西では薄味が広まったのではないかという説です。

丁稚奉公 薄味説への疑問

ここで疑問が生まれます。確かに丁稚とは上方、つまり京や大阪の奉公人の事を指す上方ことばです。商人の町ならではの制度で、色々な問題はありましたがうまく機能していたと言えます。

しかし、丁稚奉公と対をなす言葉があります。上方(京)の丁稚に対して江戸言葉の「小僧」です。

江戸では丁稚奉公ではなく、小僧奉公と呼ばれ意味は同じです。さて、丁稚がたくさん飯を食わないようにするために薄味にしたのならば、関東の小僧も同じく薄味にしていなければ話がおかしくなります。

この説には無理がある

更に言うと、確かに上方では雅らかな文化が栄え、商人文化が花開いたのは分かりますが、江戸だって負けてはいません。1662年(江戸幕府は1603年に開かれた)には白木屋がオープンし、1681年には江戸の大きな店として有名になっています。

そこでは数多くの小僧が働いていたとされていますし、京に負けず劣らずの商人文化が江戸でも花開いていたと考えられます。同じ環境ではないにしても、この時期に関西は薄味、関東は濃い味になった理由としてはちょっと納得できない感じです。

関東人は肉体労働者ばかりだったので濃い味付けを好んだ説

江戸は男ばかりだった?

江戸幕府(徳川幕府)が出来る前は、関東は相当な僻地でした。京の都から江戸までは大体500kmです。当時の人の足で京から2週間前後歩いて歩いて歩いてやっとたどり着くのが江戸でした。

そして江戸は急に造られた町、急造都市でした。各地から職人や農民、武士が物凄い人数が流入してきていました。なんと人口の8割が男だったと言われています。

そんな江戸での毎日の仕事は肉体労働です。土木、建築・・・今で言うガテン系の仕事や農業が主だった仕事でした。
毎日毎日、肉体労働をしていると食事はこってりとした物が好まれます。そのため、自然と濃い味付けが定着して行ったのではないかと言われています。

京は都 知的階級の文化

それに対して京は江戸幕府が開かれる前も一大文化圏でした。公家や商人、文化人等で大いに栄えていました。そんな所であまり激しい肉体労働は多くなく、味の薄い食事が好まれていった。という説です。

全てを説明できない

確かに当時の状況を考えると理にかなっている説だと思います。関東は肉体労働が多かったので味付けが濃く、京では貴族文化のため、肉体労働もあまり無く薄味が好まれた。かなり良く聞く説で主流と言ってもいいでしょう。

しかし、この話だけで全て片付けてしまうには無理があります。確かに、武士や職人、農民が多かった江戸で塩っ辛い食事が人気だったことは事実です。だからと言って京に武士や職人、農民がいなかった訳ありません。関東とは比率が違うのだと言われるとなるほど そうかもしれませんが、この説だけで全ての味付けの方向付けが決まってしまうほどのインパクトは感じられません。

濃口醤油の発明 醤油の違いが味の違い説

そこでもう一つ、最後に「醤油の違いが味の違いだった説」をご紹介して終わりたいと思います。

濃口醤油の発明

江戸時代初期には、醤油といえば関西から来る醤油「上方醤油」を使っていました。これは下り醤油と言われ、とても高価な物でした。

味はと言うと、塩味が立ち、旨味が少ない物でした。そして江戸に輸送するコストがべらぼうに高く、結果「高級品」と言える値段になってしまいました。江戸の人口爆発とも相まって、なんとかしなければと考えられていました。

そこで、江戸では下り醤油に対抗して「地回り醤油」なる「濃口醤油」が発明されました。こちらは塩味を抑え、旨味成分が引き立つ物でした。そのため、価格も高く、江戸っ子たちの口にあまり合わない上方醤油は次第に姿を消していきました。

この濃口醤油が発明された地こそが下総国の野田でした。千葉県野田の醤油は現在も一大ブランドです。関東で「野田の醤油工場」を知らない人はいないのではないのでしょうか。(キッコーマンと言えば誰もがうなずくと思います。)

こうして、旨味成分が多く、色が濃い「濃口醤油」の発明によって、関東の味付けが決定的に方向付けられたのではないでしょうか。

対して京都の薄口醤油

濃口醤油が関東で爆発的に普及し始めた頃、京都では変わらずに上方醤油を使っていました。こちらでは、懐石料理や割烹の文化が発展していました。いわゆる「素材の味を引き出す」文化です。そのため、濃口醤油のような旨味たっぷりの醤油は向かなかったんですね。

そして濃口醤油の発明から遅れること20年、1666年に薄口醤油が発明されました。これは現在の兵庫県たつの市が発祥と言われています。

関西の人なら誰もが知ってる醤油メーカーが今も残っています。「うどんスープ」で超有名な「ヒガシマル醤油」です。薄口醤油の発明によって、ますます京の懐石、割烹などの「京料理」は発展を遂げます。素材の味を損なわず、最小限の味付けで美味しい料理を作るという、現在の「京料理 和食文化」です。

まとめ

3つの説はいかがだったでしょうか。個人的には最後の説がしっくりきます。その当時、京都では「素材の味活かす文化」が発展し、薄口醤油が発明されました。関東では上方醤油の代わりとして濃口醤油が発明され人気が爆発しました。

偉大なる二種類の醤油革命があったからこそ、現在の関西は薄味で関東は味が濃い文化になったのではないかと思います。

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